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各プロジェクトにはそれぞれ背景があり、様々な物語とともにあります。活動報告書では書ききれないことなどについて、触れてみたいと思います。 |
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「ラジュダ:DRCSC・公共教育チームから」
- Interview with Raju-da:
Info Dissemination and Public Education division of DRCSC
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<写真1>
「情報・公共教育部署」のスタッフ9名のうち、RTIチームメンバーは5名。むかって右からリーダーのシュブロト、ラジュ、アリタ、ショウラブ。一人はこの時主張中であった。
| DRCSCは4つの活動部署(注1)と、各部署全体に関連する2つの補助部署(会計アドミニ、製作出版)から成っている。私は「環境教育部署」のチームに属しているが、隣の部屋は「情報提供及び公共育部署」のチームの面々だ。今回はそのチームの一人ラジュ・ダにどんな活動をしているのかインタビューを試みた。ベンガル語の「ダ」は名前の後につけられ「お兄さん」という意味があり、女性の場合は「ディ」がつけられる。
ラジュダはRTI(Right
to
Information:情報公開請求権利)の普及に情熱を燃やす56歳。RTIは2005年にインドで法律化され、市民は誰でも政府に情報公開を請求できる権利を保障したもので、汚職や不正に泣いてきた市民にとっては政府職員に適正処理を求めることのできる画期的な道具であり、ちゃんと使えればマジカルパワーさえあるとラジュダはいう。このチームの仕事の一つはこのRTIの申請の仕方や成功例・失敗例を市民団体に研修やワークショップを通じて普及することだ。
5名のチームスタッフの中でラジュダは一番年齢が上だが、DRCSCに勤めるようになったのはわずかこの2年弱。彼は自分のやりたかったソーシャルワークを初めてフルタイムの「職業」としてやっていることを「夢が実現した」と語る。というのも、ラジュダば父親の建設斡旋業という職業を継いで不本意ながらも仕事として30年以上やってきたが、心はいつもソーシャルワークがしたいと思っていたという。学生のころには政治運動で19歳から23歳までを刑務所に入っていたというハードな経験の持ち主。家族を養うためとはいえ、建設斡旋業というのは自分のやりたい仕事ではなかったが、政府との交渉も多々あり世間の「第二の道」(裏口とか賄賂とか言う意味)のからくりを自分は知っているのが今は強みになっているという。当時その職業にあって、賄賂などに反対することは異端視されたが、その後仕事と平行して友人と小さいNGO活動をやったりし、その関係でDRCSCとの繋がりもできたらしい。今はこうした経験を生かして市民社会に貢献できる仕事ができていることが何よりもうれしいという。市民は強く賢くならねばなららないし、不正を許さないという勇気が必要だとラジュダは言う。彼は二つの携帯電話を持っていて、一つはプライベート用、一つはRTIのSOS相談用だ。後者には一日に7、8つのコールが入ってくるとのことで、もちろんプライベートの携帯よりたくさんかかってくるよ、と笑っていう。
思い立って何気なくインタビューしたのだが、DRCSCのスタッフには、いろいろな経験の持ち主が働いているのだなと改めて興味をそそられた。それがNGOの強みとおもしろいところの一つかもしれない。
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<写真2>
ラジュ・ダ |
<写真3>
RTI普及のためにいろいろな資料やガイドブックも発行している |
<写真4>
最近行なわれたRTIネットワーク会議の様子 |
(2009年10月、チャタジー公子)
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「DRCSCスタッフ海を渡る」
- Japan visit for MPEC
project -
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<写真1>
プロジェクト支援金を
集めていただいている
各「WEショップ」を
訪問。リユーズと
リサイクルを
基本としている。
| DRCSCには45名余りのフルタイムスタッフと、パートナー団体を通じて約150名のフィールドワーカーが、西ベンガル州のほぼ全県で日々仕事に従事している。今回WE21ジャパン「MPEC連絡協議会」の招きで、多目的教育センタープロジェクト(MPEC)関連の報告と交流のため、DRCSCから教育チームのシュボッドティと私、フィールドワーカーのスブラの3名が日本を訪問することとなった。5月19日から26日の一週間、WE21側の抜群の連携プレーと親身なもてなしのおかげで、訪問の日程は有意義に展開され、延べ100名以上の支援者の方たちと交流も持てた。
初めて海外に行く二人のことが少し心配だったが、二人とも20代後半の女性だけあって、十分な適応性を発揮して無事に任務を果たしてくれた。日程を追うごとに元気になっていく二人に比べて、世話役的な私はいろいろな思いに埋没しがちとなった。万全な道路、高層ビルディング、ゴミひとつない街頭、きれいで時間の正確な電車、便利さと衛生を追求し過ぎて使い勝手が複雑なトイレ、お洒落なレストランでの食事、分刻みで動く日本の日常、年齢に関係なく若く活動的な日本女性たち、目的地に到達するまでに逐一音声案内してくれるカーナビゲーター・・・。開発指数が上位何番目かの日本、下から数えた方が早いインド。こういう日本の様子は、インドの街や村の普通の若者である二人にとってどのように映るのだろうかという思いが私を少し不安にさせる。
でも私の思いは杞憂だったようだ。二人とも誇り高く心の広いインド人、「そこはそこ、ここはここ」の基本姿勢を持っている。自分の拠って立つ「ここ」を敬愛し、「ここ」での生活を少しでも良くしようとしている大勢のNGOワーカーの一人でもあるのだから。彼女たちが日本で見て学んだことを仕事に活かせるよう、私もフォローアップしていきたい。貴重な日本訪問を可能にしてくださったWE21のみなさんに感謝したい。
ということで、相変わらず停電のある「ここ」での生活で、不便さの中にも何かしらほっとした思いを味わいつつこの雑感を書いているこの頃である。
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<写真2>
平塚市郊外の幼稚園を
訪問、一緒に給食を
いただいた
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<写真3>
日本食も大丈夫、
全部美味しく
いただきました! |
<写真4>
日程最後には少し
観光も。横浜の
山下公園にて |
(2009年8月、チャタジー公子)
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「ごくろうさまでした・ごちそうさまでした」
- Farewell party in DRCSC
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日本のNGOシャプラニールから調査で派遣されてきていたOさんの滞在が、6ヶ月の任期終了に近づいてきた2月末日のとある日、DRCSCの事務所でささやかだが「送別会」なるものが催された。と、言っても、日本式ではなくベンガル式である。送られる身のOさんが、自腹を切ってDRCSCのスタッフ全員にお昼をご馳走してくれるのである。バングラデシュでも長く駐在員をされてきた経験の持ち主だけあって、こちらのやり方は心得ておられるようだった。
などと書くと偉そうに聞こえるが、DRCSCのパートタイムスタッフとしてかれこれ10年以上になる私は、日本的な思考形式の枠からはずれていると思われるこちらのやり方に、ようやく足並みが揃えられるようになってきたか・・・というくらいである。
それまで、報告書の期限提出、視察訪問の計画作り、連絡のやりとりなどで、何回こちらのスタッフともめたことか。その主な原因は、時間に関する概念が細かく、相手に対して失礼のないようにすることが仕事の基本となっているような、私の中にある日本人的な気質にも起因するかもしれない。反対にこのような気質がまるでないにも関わらず、最後には結構ちゃんとなるものだというのがこちら的とでも言おうか。私はジリジリするけれど。
さて、送別会なる当日、当団体スタッフが連絡をし忘れたというOさんの奥様と小さな息子さんも、Oさんが慌てて連絡して無事到着された。しかし、待てど暮らせどお昼の準備が整わない。時計はすでに3時を過ぎている。どのみちこっちの人のお昼は2時過ぎなのだが、私はお腹もすいてきているし、Oさんにも申し訳ないような気持ちになってきた。ジリジリ。ようやく3時半過ぎ、注文のお昼のパケットが届いた。皆で集まって、ということもなく各人が夫々にパケットを持って頂く。みんなで送り出そう、という雰囲気がまるでない。もう少し、なんとか・・・と思う私。
しかし、マトンのビリヤ二は美味しかった。Oさん、ご馳走さまでした。その後、4時半過ぎにようやくスタッフ一同が集まってOさん一家を囲む。シニアスタッフの一人が、「今日はごちそうさまでした。ここでは逆みたいですが、出て行く人がみんなにご馳走します。今度こそ私たちがご馳走しますから、ぜひまた来てくださいね。」と笑顔で言葉をきった。そしてOさんからの言葉、こちらからのプレゼント贈呈、歌の交換など、ささやかではあったが一通りの流れとなって、最後は「ちゃんと」送別会になった。ベンガルのやり方に慣れていらっしゃるOさんは、ジリジリとした様子も見せず、終始穏やかに事に望んでおられた。
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<写真1>
DRCSCからの記念品を
受け取るOさん一家 |
<写真2>
DRCSCの面々に挨拶の
言葉を述べるOさん |
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(2009年3月、チャタジー公子)
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「市民のつながり」
- our
citizen-to-citizen's relationship -
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<写真1>
最近サンタルの村では、
大きなお祭りがあった。
そのほとぼりの後。 |
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1月26日、インドは60回目の建国記念日を祝いました。その前日、インドのシン首相は心臓のバイパス手術を受け、テレビで会見していた医師団は術後は首相はもっと勢力的に仕事をこなせるようになると語っていました。
それに先立ち、1月16日から24日まで、MPECのプロジェクト視察に見えたWE21のメンバーにもお一方、2年前に大きな心臓の手術をされた方がいらして、壊れた心臓を修理して前より元気になったのでよろこんで今回もインドに来ましたとおっしゃっていました。去年11月26日のムンバイのテロ事件は世界中に波紋を及ぼし、インドは当分「危ない」国と思われていることもあり、今回もWE21の視察参加者は当初の9名から2名となったのでした。キャンセルされた方の諸事情も良く理解できますし、仲間が一人減り、二人減りする中で、捨て身の境地!? でいらして頂いたお二人にも感謝しています。
インドは広い国です。コルカタは他の主要都市に比べて経済発展が目立たないせいか、テロ関連の事件は起こっていません。日常は極めて平和といっても過言ではありません。しかしこのインドに限らず、空港・駅・電車を利用するときはどこで何があってもおかしくない世の中です。ムンバイの市民もテロ事件の被害を受けたのは今回が初めてではありません。事件後は通勤するのにも不安があるでしょう。それでも、自分たちが日常の生活を淡々と継続していくことが、卑しい手段を駆使するテロに対する市民としての抵抗だと言っています。その気持ちはインドの他市民も同様だと思います。国レベルでも対策が進められていますが、こういう時勢で国を超えて私たち市民レベルでできることはなんなのかを、今回の経験で私たちも考えさせられました。DRCSCを代弁してチャタジーが、例えば日本で市民団体の仕事をしている人たちは、インドの市民団体で仕事をする人たちから情報をもらう、マスコミからではなくお互いが生活人として信頼のおける情報を直に交換して、それを基に自らの行動の判断にすることもその一つではないだろうかと話していました。もちろん、判断の自由はそれぞれ市民個人にあるのは言うまでもありません。
今回いらしたWE21のもうお一方は、高校生の娘さんから「お母さん、あと何回インドに行くの?」と出かけに聞かれたそうです。5年間支援のプロジェクトでこれで3年目だから「あともう2回」だとお答えになったそうです。無事に戻られたお母さんにお嬢さんもほっとされたことでしょう。おかげさまで、村の女性たちも喜んでいましたし、やる気を再喚起されたところもあります。そして、今回お二人に同行案内させていただいた私、大きな字では書けませんが、楽しかったです。日本でのご家族の皆さまにインドから「ありがとうございました」。今回見合わせた方にもぜひ来年には来ていただきたいと思います。インドが平和で、プロジェクトがちゃんと進行しているようにこちらも励みます。
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<写真2>
牛さんも村のメンバー |
<写真3>
活動報告の準備 |
<写真4>
報告や話あいの後は
踊り! |
(2009年1月、チャタジー公子)
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「みんなでおもちゃ作り」
- Enjoying
'Crafty Toy Workshop' -
外の日差しが快い初冬、シャンティニケタンのシャモリ・ディの庭でこのワークショップは開かれました。タイからの留学生が土を使ってのオカリナ、シャモリ・ディが椰子の葉っぱや古紙を使ったダンス人形、私が日本のお手玉作りを紹介しました。材料は身近にある自然のものやリサイクルできるもので、子どもたちのおもちゃとして、そしてクラフトとしても通じるものです。
このワークショップの資金は計画して捻出したものではなく、MPECプロジェクトを支援してくださっているWE21
のグループメンバーの「WEショップこうほく」注1)から、なんと売り上げの余剰金を「MPECのフィールドワーカーのやる気を促す」ような活動に使ってくださいと「贈られた」ものです。こういう思いもかけぬ朗報は、申請書書きに追われる身としては、涙のでるほどうれしいものです。
どちらかというとおとなし目のMPECのワーカーたちの「やる気」を刺激するために、プロジェクトの枠を超えて環境教育プロジェクトENRE
、当団体と関係のある教育NGOのワーカーたちにも参加してもらいました。合計26名、男女比率も半々のわきあいあいと、しかも熱心な参加者たちでした。条件は習ったおもちゃを、自分たちの場所に戻って同僚や仲間たちに教えて、子どもたちのためにおもちゃを作ることです。上手に作れば、それを地域の市場で売ることで収入源にも繋がります。
初対面の参加者が多いので第一日目の夜のセッションは、お互いの芸披露を通じての交流会。進行役はDRCSCの若い女性スタッフ、ショナリ嬢と、お父さんのようなドゥルガ・ダ。ベンガル人はこういう交流会が好きです。歌、民族踊り、劇のナレーション、詩の朗読、笑い話、はては替え歌も登場!「私の土笛は鳴ってくれない、ああ・・・」と哀調を帯びた旋律で、真剣に歌う男性フィールドワーカーの姿に、なぜか皆、爆笑。しかし、もし皆さんがこの場にいたなら、言葉が分からないとしてもきっと笑ったでしょうし、そしてまた、なんとベンガル人の普通のフィールドワーカーたちは多才なことだと驚かれることでしょう。ちなみに、芸なしの私は「迷子の迷子の子ネコちゃん」を歌って、年長ドゥルガ・ダがそれに合わせて踊りました。
参加者は全部のおもちゃをなんとか作り通しました。合計3日間の全経費は贈られたお金の60%くらいの約9万円。良い意味で通貨の違いを感じるのはこういう時です。この額で日本では難しいでしょうが、インドではみんなの「やる気」が耕され、技術を人づてで広めることができるのですから。
このワークショップは2008年11月23日午後から26日の昼まで行なわれました。おもちゃの作り方など知りたい方はご連絡ください。
(2008年11月、チャタジー公子)
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注1)「WE21ジャパン地域NPO」のひとつであるNPO法人「WE21ジャパンこうほく」が運営しているリサイクルショップ。
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「不思議の国インド」
- ENRE in the
wonder land -
9号表紙
(クリックすると拡大)
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9号より一部抜粋
(クリックすると拡大) | 先月ENREプロジェクトで発行している環境教育ブックレット・シリーズ『クリエイティブ・レッスン・プラン』の9号「ローカル・マーケット(地域の市場・お店)」ができあがりました。
このシリーズはENREプロジェクトが提供してきたトピックごとのレッスン・プランを、パートナーNGOの先生たちが各自のエコグループの子どもたちと実践してみた調査結果やフィードバックが盛り込まれているので、製作までには年月がかかっています。英語とベンガル語版の両方が作成され、前者は他州や国外の団体との情報交換、後者はENREネットワークメンバーや西ベンガル州内のNGOに配布されています。
このレッスン・プラン作りとそのまとめのブックレット作りに関わってきた私ですが、言葉のハンディを超えて(ある時は無視して)ここまで続けてこられた大きな要因の一つは、やはり「おもしろい」からです。地域の自然資源と人々の関わり、日常で観察される不思議なことをトピックと関連づけてレッスン・プランを作るのは、私のような他所者の方が適している場合もあります。最近は、ENREの活動を担っている若いスタッフにときどき会う時、「へー?」「ほー!」と思わず唸ってしまう話を聞くのが楽しみです。その一つ、あるエコグループの年長組がおこなった、自分たちの村の「非慣例的な(珍しい)食糧」の調査では、野草や木の実の他、あらゆる小動物・爬虫類が食料になり得るということに驚きます。
少数民族の一部の人々は村々を家族で移動し、野生の小動物を巧みな技術で捕まえて食しているそうです。例えばリスを捕まえるやり方はこうです。「特殊な音を口から発してリスを呼び寄せ(本当に吸い寄せられるように集まってくるそうです)、籠で捕獲し、両手でリスの頭と尻尾を持ち、ピッとひっぱり動けなくし(背骨をはずすのでしょうか)、何匹かを集めて棒にくくりつけて市場に持って行って売ったり自分たちで食べたりする」というのです。
野生保護団体が聞いたら、目尻りを上げて非難することでしょう。定住している村人も、最近では教育の普及もあり、そういう野生動物を捕って食べるのは野蛮で良いこととは思っていないとのこと。しかし、どのような音でリスは魔術にかかったみたいに寄ってくるのか、なに故にかわいらしいリスを食べようと思うのか、どのように料理するのか・・・この話からどんなレッスン・プランが可能か・・・などなど。もっと知りたい、分かりたい、「不思議の国インド」のENRE版でした。
(2008年9月、チャタジー公子)
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「日本からの絵本」
- Japanese picture
books -
青森県立むつ工業高校は、課外活動として国際協力や環境問題に生徒たちが熱心に取り組んでいる学校の一つです。指導されている南澤先生が海外青年協力隊OBということも大きく影響しているのでしょう。DRCSCには、こちらの希望に沿って生徒が集めてくれた古い裁縫箱や絵本を毎年送ってくれています。普通、DRCSCはモノの支援はあまり受けないようにしているのですが、生徒たちの思いのこもった行動の反映でもあるし、日本の政府からこういった高校に途上国への「物資支援」につながる「送料のみ」が予算としてだされるシステムがあるそうで、決して簡単ではない競争率をクリアしてその予算を確保されているとのことで、ありがたくこちらは受け取っています。こうして送られた日本の古絵本はベンガル語に訳されて、MPEC(多目的教育活動センター)プロジェクトの4つのセンターの保育所に配られます。
翻訳作業は、こちらで日本語を学んでいる学生さんたちにボランティアとしてお願いしたり、私や日本人ボランティアの方とMPECのプロジェクトスタッフでやります。訳しているベンガル人の大人たちも結構楽しんでいるので、いかに日本の絵本が良くできているかということが分かります。絵本に出てくる子どもの名前「みっちゃん、ゆうたクン」などはMPECの保育所に通っている子どもたちの「フルモニちゃん、カリチョルン君」に訳し直しています。翻訳作業は結構手間もかかりますし、こちらの時間の制約もあります。訳しきれない数冊は、発想を変えて「訳さない」ことにしました。日本語の上にペタっと紙をはって、こちらの保育所の先生や子どもたちが「絵を見て自分たちでお話を作る」ようにするためです。こういう活用もできるほど、日本の絵本は良くできています。
(2008年7月、チャタジー公子)
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「ケーシ織り」
-"Khesh"
weaving-
悠久のインド、ことに西ベンガルの女性は綿のサリーをその昔から愛用しいます。他の都市と比べて、既婚の女性はここではほとんど、老いも若きも、貧富の違いなく、体格の違いなくサリーを身にまとっているといってもいいでしょう。長さ5.5メートルの一枚の布。考えようによっては実に機能的です。着古した後もサリーはいろいろ役立ちます。その一つがこのケーシ織りといわれる裂き織りです。
西ベンガル州・ビルブム県の伝統的産品ともいえるこのケーシ織りを、MPECプロジェクトの女性グループも去年から織り始めています。これがあの色あせたよれよれのサリーからとは思われないほどの美しさです。自分たちの収入の足しにもなり、「リサイクル」を共通テーマにして日本の支援グループWE21とも繋がることができます。WE21は神奈川県下に55余りのリサイクルショップを運営して、その売上金で近隣アジアの女性の自立を支援してくれているからです。
問題は当地での手仕事賃金の低さです。手馴れた織り手は一日かけてシングルサイズのベッドカバーを織り上げますが、材料費を引くと一日の稼ぎはわずか35ルピー(約100円)くらいです。MPECのメンバーはまだまだこのスピードまでは達していません。
マーケティングも問題です。日本の支援者にケーシ織りを紹介する時には、仕上がりや色合いのセンスの良いケーシ織り小物を手がけている、知人のクラフトショップの製品をまず紹介しました。この知人はケヤ注1)という女性です。廃れそうになっているケーシ織りを魅力的に加工することで、買い手を広めています。その製品のおかげで、私たちもケーシ織りの存在を知り、活動に盛り込むことができました。
彼女は言います。質の良い仕事をすれば、これまでの(暗黙の了解のように受け入れてきた)賃金相場ではなく、それ以上の生活に足るだけの妥当な賃金で技術を提供できるのだという感覚と誇りを、まず作り手たちが持つようになることが必要だと。手仕事もまた、いろいろなことに繋がっています。
(2008年5月5日、チャタジー公子)
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(注1)キャリアウーマンとしてボンベイ(現、ムンバイ)の都市にある証券会社に長く勤務していた。数年前仕事をやめ、実家のシャンティニケタン(西ベンガル州・ビルブム県)にパートナーとともに移り住み、それまで興味のあったテキスタイル関連のことに携わり始めた。友人と共同でALCHAという店を始めるとともに、自分のブランドABAKASHでケーシ織りやカンタ刺しゅうを中心とした手工芸品を生産。彼女は手仕事職人のギルド(同業者組合)を作り、質の高い手工芸製品を手がけている。MPECの技術トレーニングの準備をする際、とても親身に協力してくれた。
「ディテール(微細な点)が好き」というインド人に私は初めて会った。彼女の企業センスとビジネスセンスにNGOワーカーたちも学ぶことは多いと思う。マイクロファイナンスのコラムニストでもある。こういういろいろな人と出会えることも、NGOの仕事をしている楽しみの一つです。
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